人間は失ってからしか、その価値を実感できない
デトックス14日間を終えた。いっさい固形物を口にしない日々を過ごし、ひさしぶりの食事は重湯(おかゆの上澄み液)と梅干し。
口に入れた瞬間。あっやばい、しあわせすぎる。食べるってしあわせだ。
思わず、食べるとはなんたるか、を考えてしまう。
普段は、食べたいときに、食べたいものを、食べたい量だけ、食べている。
そんな当たり前の日常が、いかに恵まれていたか。
遭難したり病気にかかったりして、いのちの絶望的な危機にあったわけではない。たった14日間、食べなかっただけである。
それでも、こんだけありがたみを実感できるとは...。
食材そのものの存在に感謝。生産や物流、販売に関わったすべての人にハグして握手したい。そんな想いになった。
感謝ということばで表現するのが軽率でなんかいやだな、ってくらい、ことばをあたえたくない自分だけの格別な何かがうまれていた。
少し時間が経ってふと、日常的に発している「美味しい!」の重みが小さかったような気もしてしまった。その美味しいも決して嘘ではないのだけれど。
もっと一回一回の咀嚼を堪能して、誰とも話さず、スマホも手放し、食事と真剣に向き合っていこう。
そんな風に「食との向き合い方」を考え直すことができた。
まあでも実際のところ、これから食事を重ねるごとに食べることに慣れてしまって、そのありがたみはちょっとずつ薄れてしまうだろう。もしかしたら来週のいま頃は「うめーうめー」言って適当にご飯を食べてるかもしれない。
でもその時のためにも、このブログにいま感じる『食への感謝』を残しておこう。
いや、そうなっている自分が嫌になったら、また期間を空けてデトックスをしよう。食事と距離を置いてみよう。
失ってから価値に気づいて、ありがたみを実感してシアワセになって。また慣れて価値がぼんやりしてきて、ありがたみが薄くなってシアワセが減ってくる。
日常にある周りのたいせつなも人もモノもなんでも、
そんな風に回り回っているような気がする。
足るを知るためには、たまに失うべきなんだろう。
あと、
何かひとつを失ってありがたみがわかると、副次的に全く失っていないものの価値まで上がるような気もする。
食事だけではない。付き合いが10年目になり、いつも家にいる妻の存在にもなんだか尊さを感じてきた。
近所にいる母と父、姉にも感謝の気持ちが芽生えてきた。
僕の前職に、阪神淡路大震災で両親を失った男性の上司がいる。彼から感じる、なにか底しれぬ信念。ぶっとい幹が通っているような力強さ。あれはもしかしたら、失ったからこそのものなんだろうか。
何か大きなものを永遠に失うことの悲しさは、他の誰にも理解できないほど強烈だ。
でも、それと引き換えに、足るを知る強烈な感覚が芽生えるのかもしれない。失っていない恵まれた自分にはわかりきれない。
でもこれからの人生で活かせそうな気づきがあった。デトックスに挑戦してよかった。
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そういえば残りの人生、どれだけ食事がとれるんだろう。
脳も歯も元気いっぱいで、食事をしっかり堪能できる年齢が80歳までだとしよう。
大体のこり50年。1日2食 × 30日 × 12ヶ月 × 50年=3万6,000回。
意外と多かった。え、ってくらいあった。
いや、その1回1回の厚みを大事にしよう。楽しみだ。
どんなに辛いことがあっても、あと3万回以上も食事ができるんだ。
人生捨てたもんじゃない。
何でもかんでも記録をするのが好きなのは、なぜだろうか。
記録することが好きだ。
なぜだろうか? 考えてみようと思う。
ドクターストーンでは、冒険家で採集好きなクロムがすき。直感的に惹かれていたが、なんだか理由がありそうだ。
おそらく僕は、なにかを集めたり記録したりする収集心が異常に強い。そうに違いない(クロムみたいな頭脳や発想力はもっていないけど)。
収集心というと「何かモノを集めるのが好き」というイメージが湧く。でも、明らかに違う。集めているモノは何ひとつない。必要ないモノはなるべく捨てたい。普段使わないモノは視界に入れたくないタイプのシンプル好きだ。
じゃあ、何を集めたい人間なんだろうか?
僕が集めたいのはおそらく、情報だ。いわゆる情報オタクなのかもしれない。
しかし、どんな情報でもOKなワケではない。例えば、車やカブトムシ、お酒には全く興味がない。車に関する雑誌を10万円分プレゼントされても、5年は読まないで放置する自信がある。
きっと興味がないジャンルの共通点は、自分の人生に不要(現時点では)なところ。要は、「実用性があるかないか」ではないか。誰だってそうか。いや、もうちょっと踏み込んでみる。
では実用性さえあれば、どんなジャンルでもOKなのか?いや、そんなことはないはず。
なにより僕は、神話が好きなのだ。特に、古事記が大好きだ。5月頭にはソロで出雲大社に行くために島根旅行をしたくらいだ。歩きながらニヤニヤしていた。
(↑この本がめちゃわかりやすくて面白いからおすすめ)
神話には、どれだけ真実が含まれているのか、誰にも真相はわからない。まあ95%以上は嘘っぱちで作為的な作りものだと思っている。実生活に直接活きることはない。実用性なんてほとんどないじゃないか。
じゃあ、何が好きなんだ?
5%だ。僕はきっと、"もしかしら真実かもしれない残りの5%"にときめいている。それが神話好きである理由のひとつだろう。
うん、なるほど。つまり、僕は実用性の中でも
答えがなく自由に考えられる、
余白の残されたジャンル
これが好きに違いない。このジャンルの情報を集めたいのだ。
おそらく、変数が多すぎて"答えっぽいもの"は見つかっても、"明らかに違う答えがある"ジャンルも好きだろう。哲学が一番好きで、心理学はまあまあ好きだ。
高校時代は倫理の授業がなんか好きで夢中になっていた。大学のときは、サイゼリアでドリンクバーだけ頼みながら、哲学好きの友人と「好きとは何か?」という議論を永遠に楽しんでいた。
脱線したが、つまるところ僕は、
自由に考えたいのだ。答えが欲しいわけではない。
ちょっぴり映えた表現をしてみると、アリの巣みたいに思考の枝葉をしげらせたい。って感じだと思う。
僕の先祖にアリがいたならば、きっとそのアリは、餌を手に入れることではなく、運ぶ道中が好きなタイプのアリだろう。餌を運ぶ先の目的地が遠ければ遠いほど、複雑であればあるほど、生き生きするタイプであり、たどり着いたら熱が冷めてしまうアリに違いない。
僕の本能には、「なにごとも、自分なりの工夫加えながら、自由に道中を楽しみなさい」というアルゴリズムが組み込まれていることがわかった。
何でもかんでも記録しまくっていた理由は、
答えがないモノゴトにたいして、自分なりに工夫して自由に考えるための材料集め
のため。たどり着いた。現時点での結論だが、この達成感と納得感は限りなく核心に近いということだろう。
僕がシアワセな人生を歩むための原理原則が、意外とシンプルでだったので嬉しい。
自由に考え続けろ!ということだ。そう信じてしばらくやっていこう。つらつら思うがままに書き続けてたら、また少し生きやすくなってきた。
デトックス11日目にして、"究極の足るを知る体験"をした。
5月15日からデトックスをしている。最初の1週間は、限られた食材のみで昼ごはんだけ。2週目は一切ご飯を食べず、フラフラになって倒れないために必要な最低限の栄養素を液体でのむプランだ。
プラン料金は10万円。いやー高い。ただ、価格に見合う価値があるかどうかは、自分の取り組み方次第。たいして貯金もないのに10万円という大金を払ったので、本気にならざるを得ない。ライザップ的な思想をもって挑戦してみた。
短期的に期待していたのは、
『睡眠の質を高める』
『鼻の通りを良くする』
中長期で達成したいのは、
『質の高い睡眠を毎日続けるためのルーティンをつくる』
そのために、「自分の健康に影響する変数を見つけ、影響度合いを見極め、どんな行動をどのように修正すれば良いか」を見つけ出す必要がある。
こんな具合でガッツリ毎日更新中。
正直いまのところ、心身ともに劇的な変化はない。
・五感が鋭くなったっぽい
・一日中スッキリ感があり集中が継続しやすい
(食べてないから消化にエネルギー使っていないだけ)
こんくらい。
でも、今日は予想外の気づきがあった。
商店街でカツカレー屋の看板が目に入ってしまい、「うっわ、やば食べたい状態」になったとき。
「くっそー、早くデトックス終われよ。我慢の限界だー!」
という思考には一切ならなかった(昨日まではずっとそんな感じだった)。
まさかの、、
「いつも食べたいときに、食べたい場所で、食べたいものを、食べたい量だけ、食べているのは当たり前じゃない。どれだけ今の環境が幸せか、あまりにも幸せすぎる。まじでほんと、みんなありがとう。世界ありがとう。」
と、僕のアタマが唱えはじめたのだ。プチ悟りと言えるかもしれない。
食べない状態に身体が慣れたのもある。
ものごとに対して、思考が瞬間的にポジティブ変換をはじめたのだ。
ここ5年くらいで、いちばんの"足るを知る感覚"を味わえた。
(5年前は、半年間のカナダ留学で、友達や家族、日本食が恋しくなった)
失ってからしか、
ほんとうの価値はわからない。
という人間の本質を、体験を以て学べた。失うとまではいかなくても、距離をおけばそれなりに価値を実感できる。
当たり前で価値を感じづらくなってしまうことはいっぱいある。
身近にあるたいせつな人、モノ、環境、自分の状態。これからも定期的に距離を置いていこう。
最小限の荷物でひとりキャンプをしていた、キャブヘイというYouTuberを思い出す。実行には一ミリも興味ないただの観戦者だったが、ひとりキャンプにも挑戦してみたくなった。
滝行もしてみたい。あと、インドでヴィパッサナー瞑想の修行もしてみたい。
やりたいことが増えた。新しいことに挑戦すると、いつもまた何か挑戦したくなる。
人生がさらに楽しくなってきた。
早くて正確で疲れる接客 VS ゆるくて適当で疲れない接客
たったいま、ソフトバンクでiPhone12に機種変更してきた。5G対応らしい。5Gのことはあんまりわからない。けど、なんか最新のモノを手に入れた優越感があって嬉しい。
あと青色にしてみた。これまで黒一点張りだったので、新しい世界だ。あと「えっスマホ青じゃん!なにそれiPhoneなに〜?」っていう質問がきやすくなるだろう。6月からの新しい職場で出会う、新しい人たちとの話題にもなるかも。嬉しい。
そんなことより、ソフトバンクで接客を受けて
中途半端に知識を持っている接客担当者ほど、
お客さんに不快な思いをさせやすいのかな。
と感じる体験をした。
入店して最初に接客してくれたのは、いかにも仕事ができそうな長身で顔も身体もシュッとしたメガネの男性(Aさんとする)。黒スキニーで女性と間違えるほど脚がほっそい感じ。
おお、この人はできるそうだ。なんて思いながら説明を受けはじめた。ハキハキとスピーディに、無駄なくグイグイ話す。自信があるのかパンフレットも開かず、手書きで説明をしている。うん、すごそう...。
でも、違和感があった。
僕( なんか疲れるなこの人の接客... )
という感覚だ。さらに追い討ちが。
僕「あの〜ここの部分もう一回説明してもらえませんか?」
と質問すると、Aさんから(は?いま説明したじゃん面倒臭っ)という表情が垣間見えたのだ。そのまま高圧的な口調で、ビャっと説明してくれてスッキリ理解はできた。でも、なんかイヤな感じだ。
すると突然、裏っ側にいた店員に呼ばれてどっかに行ってしまった。帰ってくると、
Aさん「申し訳ございません!ご指名が入ったので、担当代わらせてもらいただきます!!」
好感度が低かったからかもしれないが僕の目には、(僕はデキるので指名されちゃいましたよ)的なドヤった顔に見えてさらに不快になった。
そしてすぐに現れた代わりの担当者は、少し眠そうな表情に見える背の低い女性(Bさんとする)。「研修生」という大きな文字が書かれた名札をつけている。
Bさん「急で申し訳ございません。代わりに担当になります〇〇です。よろしくお願いいたします。」
自信もやる気もなさそうなテンション。でも、マイペースでありのままという感じ。
僕( あー急いでるわけじゃないし、こんな感じの人の方が嬉しいな... )
と思いながら接客を受ける。基礎的な知識以外は、ほとんどないんだろう。まず真っ先にパンフレットを手に取り、わかりやすい図が載っているページを開いて見せてくれる。
僕(えっこれ見たら、もう大体わかるな...Aさんの手書きは必要だったのか... )
そのあとは、ゆるふわ接客が続く。
Bさん「わたしも最近iPhone12に変えたんです〜。miniで小さいんですが触ってみますか?」
Bさん「5Gとかあんまり便利かわからないんですけど、たまに繋がってテンション上がりますね(笑)」
最低限のことはきちんとパンフレットで場所を示しながら説明してくれる。わからないときは「少々お待ちください」と言って、すぐに調べて説明してくれる。
僕(これくらいゆるくていいなぁ俺は... )
結局、なんの問題もなく気持ちよくiPhone12に切り替えて店をあとにした。
帰り道で考えた。
僕(あのまま担当変更がなく、Aさんのままだったらどうなってただろう...理解はできてもなんか気持ち悪いだろうな...今日は機種変してない気がするな... )
少し脱線する。ほんとうに頭の良い人は、説明する相手が、
・なにを理解していないか
・どんな風に説明してほしいか
・どんなペース配分が適切か
を瞬時に見極めて、その場で実行できる。的なことは大体のビジネス書で説明されている。
僕のAudible史上いちばんお気に入りの本、『仕事は楽しいかね?』に出てくる、謎のおっちゃんが最たる例だ。
仕事も生活もうまくいかない中年男性に対して、
・君が悩んでいるのは本当にそれかね?と問題の本質を探ったり、
・何度も何度も具体例をだして説明に厚みを出したり、
・よし、ここら辺で一旦休憩といこうか!とペース配分したり、
伝える内容は置いておき、とにかく伝え方がすこぶる上手いのだ。
これは読むではなく聴くスタイルのAudible特有の発見かもしれない。聴いたことがない人はぜひ試しに聞いてみてほしい。
それを踏まえて、AさんとBさんの接客を振り返ると、
相手を相手が望む方向へ導くために、
意外と見落としやすいが欠かせないポイントが見つかった。
①相手とって最適なペース配分をすること
②相手が腹落ちできる説明に厚みを持たせること
自信満々の男性店員Aさんは、自分にとっての当たり前が、相手にとって当たり前じゃない。という前提を持っていないように思えた。
自分はデキる!という自信が、「すぐにお客さんを理解させているはず!」という根拠のない不要な自信(というかプライド)になっていた気がする。
だから自分のペースを信じてスピーディに進め、「お客さんを置いていっている」ことに気づいていない。
また、「まだ説明不足があるんじゃないか?」という丁寧さ・謙虚さが足りないため、ぶっきらぼうな説明をして、冷たい表情をのぞかせてしまうのだ。
明日は我が身と思っておく。この教訓は対人コミュニケーションのすべてにおいて活かせる。
ちょうど明日は、父と話す。「ソフトバンクからYモバイルに変えたいけど、なにもわからん!」状態の父は、ウルトラ機械音痴(クラウドという言葉を宇宙人の言葉だと思っている)だ。
相手目線をキープしよう。前提の足りなさ、理解の難しさをしっかり見極め、ペース配分をしながら、厚みのある説明をしていこう。
中学受験のときからか敬遠していた科学雑誌Newtonを買ってみた。
別冊Newton(ニュートン)『哲学』『ゼロからわかる心理学』2冊買ってきた。
ニュートンは、中学受験で小4から通っていた市進学院という塾の雑誌コーナーにいつも置かれていた。分子がなんちゃら、宇宙がなんちゃらとかいうタイトルにまったく興味が持てず。いかにも理系の賢い、若干オタク気質の人が好んで読んでいるイメージもあり、違う世界を生きる人のモノ、という認識を持っていて避けてきたのだ。
「あーなんかすごそう。でもおれのアタマじゃ理解できないだろうなー。買っても、お金の無駄だ。」
なんて思いながら、本屋で目にしても度々スルーしてきた。ではなぜ15年以上一ミリも触れてこなかったニュートンを買ったのか。
まず、なぜスルーせず手に取ったのか?
それはずばり、内容に惹かれたから。
シンプルだ。具体的な説明をしていく。
哲学のルーツと全体像を学びたかったから。
パラっとめくっとみると、いきなり哲学の全体像をザクッと表した図が目に入った。これだ!買いだ。
即決した理由は、これまでの学び方にある。ここ1年ほどは、哲学の部分部分をつまみ食いしながら学んできた。
ただ漠然と、こんな具合。
「ソクラテスの問い続ける姿勢は真似しよう。エピクロスの友情と質素な生活を大事にする思想はなんか共感できるな。アドラーの自己決定性(究極すべては自分で決めた行動である)はマジくさいな、なんでもやろうと思えばできるはずだ。サネカの時間の価値をわかってねえお前ら的な熱弁は、繰り返し読まなければあかんまだ人生長い感はどうしても拭えない。フーコーが語る視線の内面化は、SNSのめり込んでる奴みんな陥ってないか、SNS避けよ。」
全体像がわかっていないので「自分は、哲学のどんな領域に関心があるのか?」さえも理解していない。
ゼロから歴史と全体感を学んでおけば、「ひとつひとつの主張にリアクションして行動方針をつくる」だけでなく、「文脈(主張の背景)を踏まえ、現代に合わせた独自の考えをつくる」ことができそう。
そんな期待が一気に膨らんだから買うことにした。
コミニケーションに活かせる心理学を探すため。
6月から新しい職場で働くが、営業要素が入ってくる。これまでライティングや編集ばかり、PCと向き合って黙々と作業することばかりやってきた。外向きの営業などは一ミリも経験がない。
先週会った、起業して波に乗っている優秀な元上司がこんな発言をしていた。
「うちに新しくイケてる優秀な営業マンが入った。なにより他人の懐に入る力がピカイチ。でも何より超絶論理的でクレバー、心理学にも精通してるらしいし。」
心理学だと?
実用性が高く、書籍も増え続け売れている。世間でも人気な分野というのはわかっていた。
でもここ1年くらい、僕の中にいる天邪鬼的なキャラクターは言っていた。
「そんなの学ばなくていーよみんなやってるし、小手先になるよ、結局は経験と反復だよ。はい、やめやめ。」
と、心理学を学ぼうとする自分を阻止してきた。
でも初出社の6月まであと10日。やれることはやっておこう。使えるものだけつまみ食いしよう。と思い購入した。哲学と同じく、「心理学とは?」というそもそも論からはじまる解説の流れにも惹かれた。あとこの図。
哲学と同じく、全体像を視覚的に理解できるなこれ。という印象が購入の決め手。
余談だが、やっぱり人間は図みたいな右脳的なものに直感的に惹かれてしまう。論理は後付け。買うかどうかはほとんどの場合、右脳で判断してるんじゃないか。って気づきも(書きながら出た)。
最近いろんな本を買ってきたが、こんだけ買った理由を言語化したものはない。買った理由をハッキリさせると「読むべくして買ったんだ」という気持ちになり、モチベが上がる。一方で、「読むべき理由を自分に押し付けて、無理矢理読ませようとしている」ような感覚もある。何もせずとも買った瞬間に心の底から興味の水が湧き出るようなモチベがないってことかもしれない。
まあそれも読んでからどうなるかだ。さあ今日は読むぞ。
哲学者の推しメンを決めよう。
17年ぶり、小学生以来。えんぴつを買った。
『京大式DEEP THINKING 最高の思考力』という、いかにも胡散臭いタイトルの本を買った。
本屋で見かけて「嘘くさっ」と思いながらもパラパラ読み流すと、
異様なアツさで、
えんぴつのすばらしさ
について言及してる。
「あれっ...このスタンスは尖ってるぞ。おもしろい。てかこの内容ならタイトルもっと捻っても良いんじゃ...『世間は知らない!究極のえんぴつ思考法 ~えんぴつの眠れる可能性~』的なのはどうだろう...いや、売れねえ。文具オタクしか買わないか...。」
なんて思いながら著者のプロフィールを読むと、
不便益(不便だからこそ得られる益や豊かさ)
について研究をしている京大の教授らしい。あーなんかもう好き。
二ヶ月くらい前に、
遊びに対して「あまりにも真面目になりすぎた」「誰がどうみても意味がないことにこそ、楽しさは存在する」「自分だけが楽しめば良い」的な思想をもっている、文化史家ヨハン・ホイジンガの代表作『ホモ・ルーデンス』という本の解説動画(アバタローさんのファンです)見た。
そのときに、
「他人にとって意味がないことの方が、自分にとって価値あるんじゃないのか。あれどういうことだ。いやそうだ。きっとそうだ。周りと比較しなくなるし。」
的なことを考えたのを思い出す。
そして、
「えんぴつか...いやぁ、だるいな。まず削らないと使えないし。消しゴムなんてもう持ってないわ。あっ、鉛筆削りもないとダメじゃん。これが不便か。いや、これこそ不便だ。何かある。ありだな、よし買おう。やったるぞ。」
....
えんぴつ、消しゴム、鉛筆削り、買いました(全部で600円くらい)。本屋で一緒に。
ここ半年は、iPad × Apple Pencilというテクノロジーの極み、不便益の対極にあるようなスタイルでノートを取っていたけど、なーんか物足りない感じがしていた。ここいらで、えんぴつという不便のスパイスを入れてみよう。
京大式なんちゃらは、もう読まなくても良いかも。僕の生活に「えんぴつ」という原始的であり、かつ新鮮な世界を届けてくれた。
それだけでもう大満足。ありがとう京大教授。
明日からえんぴつ試します。感想もまたブログに書こうかな。
あー早く鉛筆削りたくなってきた。
他人に見られてもOKな"自分用の記録ノート"として、はてなブログ始めます。
この図を見て「あっブログはじめよ」と思い立ち、さっそく初投稿。
- phaさんの『知の整理術』より-
ここ2年くらいはメモ(google keepやノート)だけ。パッと浮かんだことも、ちょっと踏ん張って考えたいことも、すべてメモだけに残してきた。
でもそろそろ限界。
どんなにメモ書きを残していても、どこかに「自分だけ理解していればオッケー」「気持ち良くなってきたから終わり」と妥協してしまう自分がいる。
いつもどこかモヤっとしていて、アタマの中が整理されていない感覚。アイデア、考え、気づき、全部ぐちゃぐちゃっとアタマに残っている状態。
自覚はしていました。
発散の量に対して、
"収束が少なすぎる"。
メモ書きだけで、アウトプットしたつもり。
自覚したまま半年くらい放置していたけど、やっと動き出せた。自分ナイスだ!すごいぞあっぱれ!
と言っても、たっぷりと時間をかけてキレイに仕上げるような記事を書くことなんて、僕にはできません。続いても4日くらい。
ゆるーく、楽しく、なんとなく続けたい。
noteではじめる選択肢もあった。でも、はてブロを選びました。noteというプラットフォームに漂う『我が作品を見よ、読者よ集まれ』みたいな空気感がなーんかイヤで。
Twitterと似てる感じ。気張っちゃう予感がして。そんなつもりはなくても、自然と承認欲求がグイグイ溢れてきちゃいそうで。
「考えたいこと」よりも「読ませたいこと」が先行したらオワリ。
あくまで、このブログは"自分のため"に活用する。あわよくば、ほんの少しでも誰かの心を動かせたらラッキー。ってスタンスで。
あとやっぱり、phaさん、ちきりんさんが好きなので。好きな人たちと同じ場所で書きたい。っていうのもある。
なにごとも続けるためには最初の目的設定がカギ。結論を改めて。
このブログは、
気ままにゆるーくマイペースに。
他人に読ませたいことではない。
自分の考えたいことを考えて、
考えたプロセスを残しておく。
ために投稿していきます。
3才のとき、岡山の畑で遊んでいた。近くで作業中のおばあちゃんに何にも聞かれてないのに「自分が話したいことを、話したいだけ、話したいタイミングで」延々と伝え続けていた。おばあちゃんは楽しそうに聴き続けてくれたおかげかもしれない。
でもそんな感覚で、ブログ投稿を続けていこうと思う。